2021年度のノーベル平和賞を受賞したフィリピンのジャーナリスト、マリア・レッサさんの記事に触れる機会がありました。
この記事から、民主主義にとってどれだけ「事実・真実」が大切で、同時にそれがどれだけ危機に陥っているかということについて考えました。
マリア・レッサ氏はインタビュー記事の中で
事実がなければ信頼は得られないし、信頼がなければ民主主義は実現できない。
独裁者は、ひとたび民主的な方法で選出されると、民主主義を内側から壊す道具として民主主義を使う。
真実を隠し、何が事実なのか、何が正しくて何が間違っているのかを見えにくくすることで、「我々対彼ら」という分断を意図的に作り、あなたたちが信じていた組織をバラバラにして、あらゆる人を信頼しないようにさせることができる。
と述べています。
何を信じていいかをわからなくさせることで、人々は世界を複雑に感じ、無力に感じ、結果単純な過去に回帰したがる→保守に依存的になる。
何を信じていいかわからなくさせることで、意図的に人を信頼しないようにさせることができる。
SNSなどで、自分の趣味趣向に合わせた記事や情報が徐々に集まってくる「フィルターバブル」も一役買っているのでしょう。
近い価値観を共有できる世界観の中で、人は安心と喜びを得ることができるが、同時に意見の違う者同士の分断を深める。
それは権力者の権力を強化する効果につながり、独裁を深めてゆく。
フィリピンではコロナ禍において、ロックダウンによる行動制限が課されたあと、フィリピン最大の放送局であるABS-CBNが閉鎖、放送がストップされました。
続いて反テロ法が可決され、政権に対して批判的である者をテロリストと宣言する権限を、少数の閣僚に与えました。
マリア・レッサ氏自身も現在、名誉毀損ほか複数の罪をかけられ逮捕・勾留後、現在禁固刑が科せられ控訴中とのことです。
これは明日の日本の姿だと思いました。
参院選真っ只中ですが、現在の与党が勝利した場合 憲法改正を提案するとみられています。
自民党改憲草案の中には「緊急事態条項」に関わる条文が新設されています。
第98条(緊急事態の宣言)
1 内閣総理大臣は、我が国に対する外部からの武力攻撃、内乱等による社会秩序の混乱、地震等による大規模な自然災害その他の法律で定める緊急事態において、特に必要があると認めるときは、法律の定めるところにより、閣議にかけて、緊急事態の宣言を発することができる。
2 緊急事態の宣言は、法律の定めるところにより、事前又は事後に国会の承認を得なければならない。
3 内閣総理大臣は、前項の場合において不承認の議決があったとき、国会が緊急事態の宣言を解除すべき旨を議決したとき、又は事態の推移により当該宣言を継続する必要がないと認めるときは、法律の定めるところにより、閣議にかけて、当該宣言を速やかに解除しなければならない。また、百日を超えて緊急事態の宣言を継続しようとするときは、百日を超えるごとに、事前に国会の承認を得なければならない。
4 第二項及び前項後段の国会の承認については、第六十条第二項の規定を準用する。この場合において、同項中「三十日以内」とあるのは、「五日以内」と読み替えるものとする。
第99条(緊急事態の宣言の効果)
1 緊急事態の宣言が発せられたときは、法律の定めるところにより、内閣は法律と同一の効力を有する政令を制定することができるほか、内閣総理大臣は財政上必要な支出その他の処分を行い、地方自治体の長に対して必要な指示をすることができる。
2 前項の政令の制定及び処分については、法律の定めるところにより、事後に国会の承認を得なければならない。
3 緊急事態の宣言が発せられた場合には、何人も、法律の定めるところにより、当該宣言に係る事態において国民の生命、身体及び財産を守るために行われる措置に関して発せられる国その他公の機関の指示に従わなければならない。この場合においても、第十四条、第十八条、第十九条、第二十一条その他の基本的人権に関する規定は、最大限に尊重されなければならない。
4 緊急事態の宣言が発せられた場合においては、法律の定めるところにより、その宣言が効力を有する期間、衆議院は解散されないものとし、両議院の議員の任期及びその選挙期日の特例を設けることができる。
自民党改憲草案の中でも、この「緊急事態条項」は特に問題視されている条項で、
このままだと、発動要件が曖昧で歯止めが緩く、
限られた人間の権力が集中し 、国会の議論を経ることなく、国民に対してさまざまな制限や人権侵害を科す危険性を孕んだ条文であるという見方が多いようです。
「政府がそんなこと(国民を痛めるようなこと、国民を守らないようなこと)をするはずがない」という性善説を信じる人も、今の日本には多くいるのかもしれません。だからこそ現政権与党は勝ち続けてきているのでしょう。
でも、その考えに大きな疑問を持つ国民も少なからずいるはずです。
それは福島で被災され、国に守られることなく、また裁判に訴えても「国に責任なし」との非情な判決の前に立ち尽くすとき。
先の大戦で「国を守る」という大義のもと、敵国にというよりもむしろ日本国に裏切られる形でいのちを落としたり、過酷な戦後を生き抜いてこられたみなさんに触れるとき。
各地の公害訴訟などで、病に苦しみながら人権を勝ち取るために何十年もの間 戦い続けてこられているみなさんに触れるとき。
「国が国民を守ることなんてない」という絶望に触れるとき、良きに働かない可能性もある強権を認める条項が憲法に記載されることのおそろしさを感じます。
誰一人取り残さず 、一人一人の多様性を認め合いながら共存することは、実際に実現しようと思うと、並大抵のことではないと思っています。
でもそれはどうしても実現したいことで、実現しなければならないことで、その時の基盤になることが「事実から目を逸らさず、自分の頭で考え行動をする」ということなのだろうと思います。
マリア・レッサ氏は、こうも語っています。
民主主義を失わないためには、事実だけにこだわることであり、またそれについては立場を譲らないことです。
ひとりひとりが真実のためなら何を犠牲にしてもかまわないか、自分の胸に聞いてみること。
なぜなら真実こそが今、危機にさらされているからです。
日本では近年、データの改竄や、資料の隠蔽、情報公開の困難などが横行するようになっています。
情報公開を求めても、黒塗りの資料ばかりだったり、ファイルごと資料が破棄されていたり。
民主主義の危機は、事実の隠蔽からはじまる。
このことは肝に銘じておきたいことだとあらためて思いました。
【参考にしたWeb Page】
■笹川平和財団:新型コロナウイルスの時代におけるフィリピンの民主主義と社会の変化
マリア・レッサ氏(ジャーナリスト、ラップラー社CEO)インタビュー
■論座:緊急事態条項の実態は「内閣独裁権条項」である:木村草太 首都大学東京教授(憲法学)
【黒塗り資料画像の取得先】