ブログタイトル「シャンバラの戦士たちへ」の由来

自分の人生の学びの中で、「シャンバラの戦士の予言」という話に出会いました。

このブログ名は、この神話の名前に由来しています。

神話は、以下のようなお話です。文章は、
「アクティブ・ホープ」
ジョアンナ・メイシー+クリス・ジョンストン著
翻訳;三木直子 春秋社
より引用させていただきました。

【シャンバラの戦士の予言】


地球上のすべての生命が危機にさらされるときが来る。そのとき、大きくて野蛮な精力が台頭しているだろう。彼らは互いを抹殺しようとしてその富を浪費するが、彼らに共通する点も多い。彼らが共通して持っているものの中には、想像を絶する破壊力を持った武器と、世界を荒廃させるテクノロジーがある。人類の歴史において、すべての生命の未来がまさに危機一髪の窮地に陥ったそのときに、シャンバラの王国が姿を現す。

あなたはそこへ行くことはできない。なぜならそれは場所ではないからだ。それは、シャンバラの戦士たちの心と頭の中に存在する。外見からは、その人がシャンバラの戦士であるかどうかは見分けがつかない。彼らにはユニフォームもなければ、バッジもつけてはいないからだ。どちらの味方かを示す軍旗も持ってはいないし、敵を威圧するためにその上に登ったり、その陰に隠れて休息し、隊列を整えるためのバリケードもない。彼らには自分たちの領土さえないのだ。シャンバラの戦士たちが移動し、行動することができるのは、野蛮な勢力が支配する領域においてだけなのである。

シャンバラの戦士たちに、精神的にも肉体的にも大きな勇気が求められるときが近づいている。なぜなら彼らは、野蛮な勢力の中枢に向かってまっすぐ進み、その武器を解体しようとしているからだ。彼らは、武器がつくられ、配備されている敵の要塞に潜り込み、意思決定が行われる権力の回廊に入り込む。こうやって彼らは、あらゆる意味で武器を解体しようとしているのだ。

シャンバラの戦士たちには、これらの武器は解体できることがわかっている。なぜならそれらは「心が創りだしたもの」であるからだ。それらは人間の心が創りだしたものである以上、人間の心によって破壊することができるのである。私たちが直面している危機をもたらしたのは、悪の神でも、邪悪な地球外の勢力でも、あるいは前もって定められ、変えることのできない運命でもない。そうではなく、これらの危機は私たちの関係性や習慣、あるいは何を優先事項とするかによって生み出されるのである。

「だから今こそ、シャンバラの戦士たちは訓練を始めるべきときなのだ」
「どうやって訓練するのですか?」
「二つの道具の使い方を覚えるのだ」
「一つは慈悲の心。もう一つは、ありとあらゆる現象が互いに依存し合っているという根本的な洞察だ」。

私たちにはそのどちらも必要である。慈悲の心は、私たちがいるべき場所に行き、やるべきことを行うための燃料となる。それはつまり、世に存在する苦しみを恐れないことを意味する。世界の痛みを恐れないとき、何も私たちを止めることはできないのだ。
だが慈悲の心は、それだけではとても熱くて、私たちを燃やし尽くしてしまうかもしれない。だから私たちにはもう一つの道具、すなわち、この世にあるすべてが根本的につながり合っているという洞察が必要なのだ。その洞察があれば、これは善人と悪人の戦いではなく、善と悪を分かつ境界線はすべての人間の心の中にあるということがわかる。そして、私たちは生命の織物の中でお互い密接につながり合っているので、私たちの最も小さな行いでさえ、あたかもさざ波が広がるように、私たちの目には見えない彼方まで、織物全体に波及することがわかるのだ。だがこれは少々冷たく、観念的でさえある。だから私たちには、慈悲の心が持つ熱さも必要なのである。

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