【法律の不備を疑え!】

昨日は北陸新幹線京都延伸計画の件で、右京区チームの公開勉強会でした。

昨日、私が一番ポイントとして受け取ったことは、

高速道路建設の場合、地元住民と公聴会を開き、住民との合意形成をとった上で進めなくてはいけないと法律に明記があるけれど、

「整備新幹線法には(住民との合意形成をしないといけないという)記載がない」ということ。

ゆえに、住民側から意見を言う仕組み、声が聞かれる仕組みをそもそも省いているということ。

それって、明らかに人権侵害ではないのか(憲法違反ではないのか?)と私は思った。

「法律の取り決めがない」ということ、よく注意しなければいけない。

石垣島の、自衛隊基地建設をめぐる住民投票条例制定のときもそうだった。

「住民投票をしなければいけない」という記載はある。

でも「どんなふうに実施するか」という記載はない。だからできない。。。は???である。

それは、「法律を整備してない」という不備があるんじゃないのか?と言っても、そのあとは門前払いのような判決が続いていたと、私は理解している。

(ここからは私の推測だが)「法律の取り決めをしない」は、おそらく意図的である。

意識して、法律に書いてない。

それは国民への冒涜である。

どんな問題にも、いろんな意見、いろんな立場、いろんな価値観がある。その中でなんとか、お互いの意見を尊重し合いながら、誰もが納得ができる答えを見つけていきたい。

しかし、その前に。

そもそも、ある一部の政権権力の中で決められることに対して何も誰も言えないような仕組みを作られている中で、お互いの意見の尊重もへったくれもない、という状況が最近多すぎるような気がしている。

(へったくれもない、というのは、どれだけ対話を尽くして最善最良の答えをみつけたところで、裁判や国政・行政に声を上げたところでバッサリ切り捨てられる、ということである)

もしかしたら、昔からそうなのかもしれない。

一見なんのつながりもない事柄同士の中に、共通してみえる暗躍のようなもの。

それがある限り、多くの声や活動は徒労に終わるだろう、、、

それを変容させてゆくものは何か。

人は成長とともに、どんどん多様性を増してゆく。

けど、国の仕組みはどんどん画一的になってゆく(そうなっていっている気がする)。

その反作用を変容さえるキーは何か。

ぼんやりと俯瞰して考える、日曜日の朝。

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